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フィルム・スキャナーで過去を旅する
1954年ソウルへ散髪屋で働く

1954년 서울로 이발소에서

1954年9月


フィルムスキャナーで、古いフィルムから現れる過去への旅に出発する。なにがあったのかな。


1954年9月ソウルへ行った。母が亡くなり、ひとりぽっちになり、叔父さんに引き取られた。
ところが、叔父さんも、軍隊に引っ張られ、叔母さんとお婆さんがいたが、生活が苦しいかった。
私は乞食のような生活をしていたが、そこにはいられなくて、
兄を訪ねて、ソウルへ行った。

1954年9月から、1957年日本へ再び来るまで、働いていた首都理髪館(1966年撮影)

この手紙は、私がソウル駅から兄宛に出した手紙だ。
内容は「私は今ソウルへ上がってきました。
今ソウル駅前でこの手紙を書いています。兄さんがいるところを探しております。
兄さんがなんとか私を捜してください。ソウルには19日に来て、お金もなく飢えています」
9月20日 仁鳳より
封筒の裏には、
「ソウル特別市駅前で、さまよう、高 仁鳳より」
この手紙は、兄が、1991年5月19日に亡くなったが、その遺品から、出てきた。
消印を見ると、87.9.20とある。
87とは壇記4287年のこと、1954年だ。
兄さんから私に手紙でソウルの住所が書かれていたが、それは兄の友人の家であった。
そこは、ソウル中区草洞107番地だ。探して訪ねてみると、こんなバラックで、アパートのような感じで、たくさんの世帯が住んでいる。
兄の友人の家も友人は兄と同じく軍隊に行っていて、その家には、お婆さんと小さな子供だけが住んでいた。
何日か、やっかいになった。しかし、居りづらい。

神の助けか、隣の家が、散髪屋の主人の家であった。
「メシを食わして、泊めてやる。しかし、給料はないが働くか」と誘われた。私は「助かった!」と、
「はい!メシさえ食わしてくればいいです!」と、働くことになった。
これが散髪屋の主人の家。入口に立っているの主人の次女。
主人の家は、主人と奥さん、娘二人で住んでいた。部屋は、四畳半と四畳の二部屋のみ。私は、押し入れで寝泊まりをした。3年間をだ。
首都理髪館。ここで1954年、14歳から、3年間、働く。掃除やタオルの洗濯、お客の頭を洗うのが主な仕事。
この欄の写真は、1966年に夏期学校で韓国訪問したときに撮影したもの。
←1954年秋に撮影されもの。
戦争によって、多くの韓国の子供は学校へ行けず、生きるためには子供であっても働かねばならない。私もソウルにある理髪所で丁稚に入って、住み込みで働いていた。着ている上着は主人の子供のジャンパで、ズボンは軍服だ。
しかし、私の表情は明るい。常に明るい未来の希望を抱いているのだ。
1957年春、日本へ再び来る直前に撮影この年の7月に日本大阪に着いた。
右は裡里中央国民学校(小学校)の同級生である張哲雄君。彼から本を借りて読んでいたので、今の読解力が保れている、いまの私がいると思う。
仁守兄 私だ。上下の服は軍服を直した物だ。
1955年1月24日(旧正月)に、兄のカメラで撮った写真だ。主人の家の近くに大きな木があった。
兄もカメラが好きだったことがわかる。
1957年1月2日と写真の裏に書いてあるが、旧正であると思う。
乙支路3街交叉点で、主人の次女、善姫と。
今でも観光地などにあるスナップだ。このときはこんな写真屋があった。
この年、5月1日にソウルを出発し、大阪に着いたのが、7月始め。
9月には建国中学2年に編入した。

■桃谷公園が大雨で水が氾濫(1958/夏の終わり頃)
■1958年、建国中学生活(1958/1〜)
■1957年、建国中学2年生に(1957/7〜)
■1947年、日本から韓国へ(1947/)
■朝鮮戦争「戦場の記録」写真展(2010/6/26)

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