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ルーツを訪ねて「韓国一周輪行」
<パート1>

2008年4月25〜29日

ボンとチョンテの韓国自転車旅行珍道中が始まった。

新井明夫(朴正泰 PARK JUNGTAE



2001年8月から読売新聞に掲載された黛まどかさんの記事をネットで見て感動や刺激を受け、自分もいつか韓国をゆっくり見てまわり韓国の土地や人々と触れ合ってみたいと思っていました。

5年ほど前に、高仁鳳さんに
「5年後ぐらいに自転車で韓国一周をしてみませんか」と、相談したら
『すぐ行こう』といわれたが、
私は会社を立て直すことが先決でしたので、しばらく待ってくださいとお願いしました。
その後、高さんが合うたびに『いつ行くねん。いつ行くねん。』と、聞かれ「もうちょと待って。」と返事することしかできなく、本当に5年が経ってしまいました。

やっと半年前に高さんに韓国一周を実行できることを伝えたら、大喜びで旅行の手配や、自転車の選定、また高さんの沢山に友人がアドバイスや支援をいただき、2008年4月24日に念願の韓国一周の旅へ出発することになりました。

私の韓国一周の目的は、日本の各地のようにその地域を思い浮かべるだけで、風土・そこに住んでおられる人たちの温もりが浮かんでくるようになることだったのです。せっかく在日として生を受けたのですから、韓国の人・土・海・空・風を自分の肌でできるだけ沢山感じたかったのです。

24日に南港国際フェリー乗り場から韓国大型フェリー「パンスター」に乗ったら、もうそこは韓国。船に乗った瞬間キムチの香りがしましたが、1時間もしないうちに匂いは消えました。
きっと、嗅覚が唐辛子やにんにくの匂いを受け入れてしまったのでしょう。そういえば、欧米人が日本の空港で味噌汁や漬物の匂いがするといっていた話を思い出しますが、やはりその国々の匂いがあるというこでしょうね。

乗船後すぐに高さんと今後のスケジュールの打ち合わせをし、高さんから「今から韓国内では、新井さんではおかしいのでチョンテ(私の本名)と呼ぶようにします。」と言われたので、
『じゃ〜私はヒョン(兄)と呼びます。』と決めました。
旅行中は高さんから、「チョンテ、チョンテヤ」と大きな声で呼んでもらい、子供の頃鶴橋で育ちましたが、皆からチョンテと呼ばれていたので、なんだか懐かしくほのぼのとした気持にさせてもらいました。

旅の途中でも、高さんの韓国語のお陰で、言葉の壁はまったく感じなかったので本当に助かりました。

船でのカラオケ大会で、韓国人のノリの良さを関心して見ていて気が付いたのですが、日本ではリズムに合わせて手拍子を取りますが、船の中では手拍子の間に肩を左右前後にゆすりながら立って踊るのですね。
また、日本人の目線では、まず、はしゃがないであろうと思える上品そうな人が自分の好きなカラオケが始まると、この楽しいノリで踊り始めるのです。
また、カラオケの上手い人が多く、司会の進行も抜群でこの輪の中にいると、長い船上の時間も忘れ本当に楽しい船旅でした。

翌日の朝についた釜山港は26年ぶり、当時とは随分様変わりしていて、港から大きなビル立ち並んでいるのが驚きと同時に印象的でした。
入港後、早速腹ごしらえにチャガルシ市場に向かい海鮮料理を堪能し、ヒョンからの提案で、おたがい10万ウォンづつ出し合い、私が預かり食事代などの支払いに当てる事にしましたが、食事の請求は9万2,000ウォン、高い!!。
預かったお金が、最初の食事で約半分になってしまったので、精算後、10万ウォンづつ再度出し合いました。

輪行では、ヒョンが前を走る事を決め、私の父のコヒャン(故郷)チャウォン(昌原)市を目指しました。
釜山の道路は、坂が多い。自転車が走る国道は、日本の高速道路に似ています。延々と続く登り坂の国道は、それだけで走る気力が失せるので出来るだけ下を向いて、こいだり・歩いたり、前のヒョンは200m位こいでは、20秒ほど下を向いて息を整え、また、200m。後ろを走っている私もヘトヘトで力を貸すことが出来ない。
見るのがつらいので、前を歩くようにし、先へいった。
一つの坂を上がり、ヒョンを待つ間、会社や留守電への連絡をするようにした。これの繰り返し、目標の1日50〜60kmまで行かず、1日目は29km。本当に疲れた。
別に急ぐ旅でもないし、これでケンチャナヨ(大丈夫)。

2日目は、昌原市を目指すが、ルートは山を越えるか、トンネルを抜けるか。
日が暮れるのでヒョンの提案通り、トンネルを抜けるルートに決めた。
トンネル道路は、車だけ走るように作ってあるので、端に寄れば側壁に当たりそう、車道側によれば車のクラクション、それよりも後ろから近づく車の轟音に、ハンドルを握る手に力が入る。
冷や汗が吹き出る。出口が中々見えない。だいぶ走ったら、後1000mの標識、
やっと半分を超したぐらい。後ろを走る私は、追い抜いていく車にはね飛ばされる恐怖心と戦いながら、ひたすらペダルをこいだ。
明るく小さい出口が見えたときは心底ホットしました。
トンネルを抜けて、ヒョンに『怖かった!』といったら、放心状態の私を見て「思ったより怖がりやな」ですって。
ヒョンは、朝鮮戦争で生死をさまよった経験があるから強いわ。

また、ヒョンは、不思議な能力があり、2日間共宿泊までお世話になった夜の食堂は、ヒョンが迷うことなく決めた。
特に、2日目の夜は、私がまだ前進しょうとするのを引き止め、作戦を練るからと引き返した「食堂、ソウル・ワン・チョッパル」でした。これから2〜3年間かかると思われる『弥次喜多道中』ヒョンとの2人なら何とかなりそうです。

翌日、泊めていただいた金さんの車で一路私の父のコヒャン(故郷)へ。
住所の昌原市東邑丹溪里の班長さんが、古地図を道端に広げ199番地を探し当ててくれました。班長さんの案内で、人1人がやっと登れる裏山を上がると、柿畑が広がる高台にある30坪ぐらいの平地が父親が20才まで育った場所でした。
柿の木が植えてあるその住居跡から村を眺め、ウリアボジ(私のお父さん)は、一旗上げてやろうと、85年前に日本への思いを募らせたのだろうと思いながら、目の前一面に広がる田畑を見渡してきました。

その後、金さんが釜山港に送ってくれる前に、時間があるので食事に海雲台(ヘウンデ)の先にある青砂浦刺身村へ連れてってくれた。
途中、海の中を湾曲しながら走る広安大橋から見える海岸線は企業・マンション・ホテルなどの高層ビル群が立ち並び、実に美しい。

青砂浦刺身村では、海女が捕ってきた海鮮が安く新鮮。大好物のセンナッチ(生タコ)は、今まで食べた中では一番上手い、吸盤が口の中でへばり付き喉をなかなか通らない。また、馬糞ウニをスプーンでガバッとすくい、口にほうばる、これまた上手い。
そのお店で料理をしてる180cmほどの屈強なアジュマ(おばさん)に、ヒョンに聞いてもらった。
「今まで、喧嘩して負けたことがありますか?」怖そうな顔していたアジュマは笑いながら
『私に、喧嘩をしかけてくる人はいないよ。』帰りに一緒に記念写真を撮ってもらったが、逞しい。

食事後、ワゴン車は釜山港へ急いだ。
車中、この2日間 釜山での多くの出来事が思い浮かぶ。出会った親切な人達・目を見張る釜山の都市インフラ・目茶苦茶に上手い海鮮料理・コヒャンの風景・どこまでも続く長い坂(アリラン峠みたい)・・・・・。
噴出すヌンムル(涙)があふれてとまらない。鼻水もとまらない。この感謝・感動はいつまでも忘れません。カンサハムミダ。

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黛 まどか
俳人。神奈川県生まれ。1994年、「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞受賞。同年、俳句サークル「東京ヘップバーン」発足。1996年、俳句誌「月刊ヘップバーン」創刊・主宰(2006年、通巻100号を機に終刊)。1999年、北スペイン・サンチャゴ巡礼道約900kmを徒歩で踏破したのに続き、2001年〜2002年、四季にわたり5回訪韓し、釜山からソウルまでの道のり約500kmを徒歩で踏破。

【韓国サランヘヨの旅】
2001年8月〜2002年10月、釜山からソウルまでの道のり500kmを、5回に分けて歩かれ、旅行記は2001年10月〜2002年12月、読売新聞夕刊「韓国俳句紀行」に連載、2003年に『サランヘヨ〜韓国に恋をして〜』として上梓された。


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